書き留めたいことを書き留めたいように

起業支援ネット×よのなか×わたし

「切実」ということ

先日こちらのシンポジウムに参加してきました。

「あいちトリエンナーレ2019」シンポジウム『日本の現代美術と芸術祭』を開催します | あいちトリエンナーレ

 

内容については、起業支援ネットの会報誌エールの編集長がTwitterで実況をしてくださっていたので、ぜひそちらのまとめをどうぞ。

togetter.com

こういうシンポジウムに観客として参加するのは久しぶりで、内容も刺激的だったことから、なかなか興奮が冷めません。多焦点。遅ればせながらさしかかる。いろんなキーワードがいまでもぐるんぐるんと。

…という状態で書いたブログということをご承知おきいただきたく。

 

登壇された松岡正剛さんは、千夜千冊でも有名な方。

千夜千冊TOP

 ※千夜千冊とは、一言でいうとめっちゃ膨大な本の情報サイトです。…っていう紹介にとどまらない、深く広く恐ろしい(?)森のようなサイトです。

 

わたしは、編集学校門徒としてあるまじきことに、千夜千冊の熱心な読者ではないのですが、時々めぐりあわせのように出会い、何度か繰り返し読んでいるものもあります。(スマホで読みにくいのがちょっとアレなんですが、きっと理由があるのだと思います(勝手な推測)。)

 

例えば、起業の学校のことで悩んだらこれ。

1559夜『アジールの日本史』夏目琢史|松岡正剛の千夜千冊

 

起業支援ネットのことで悩んだらこれ。

1625夜『夜中の電話』井上麻矢|松岡正剛の千夜千冊

 

そして、寒い日はこれ。

1000夜『良寛全集』良寛|松岡正剛の千夜千冊

今週は寒くて、昨日は東京方面は雪で大変!っていうニュースも多く、ふらりと読んでみたんですが、やっぱりいつもここで泣きそうになります。

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 こうして、良寛はどんなときも、一番「せつないこと」だけを表現し、語りあおうとした。「せつない」とは古語では、人や物を大切に思うということなのである。そのために、そのことが悲しくも淋しくも恋しくもなることなのだ。それで、やるせなくもなる。
 しかし、切実を切り出さずして、何が思想であろうか。切実に向わずして、何が生活であろうか。切実に突入することがなくて、何が恋情であろうか。切実を引き受けずして、いったい何が編集であろうか。
 ぼくは思うのだが、われわれはあまりにも大事なことを語ろうとはしてこなかったのではないか。また、わざわざ大切なことを語らないようにしてばかりいたのではなかったか。良寛の詩歌を読むと、しきりにそのことを思いたくなる。

-----------------------------------------------------------------------------------------------引用おわり---

 

この文章に対して、感想など言いようもないのだけれど、昨日読んで、また最近いろいろなことを考えたり、仲間たちと話をしたりする中で、「切実」と「評価」「成果」はなじまない概念なんだろうな、と思いました。いや、概念とかの話じゃないな。”わたしは”切実が好きで、評価とか成果とかは多分、嫌いなんだ。

このご時世の中で、評価や成果が求められるのはわかる。それらが果たす役割もあると思うし、わたしには届きようのない世界の一部を支えていると思うので、嫌いなりに折り合いをつけようとはしています、はい、大人なので。審査とかのお仕事もいただいていますし。。。

けど、本来的には好きじゃない、ということからは目を逸らさずにいたいし、敏感でいたいなとは思う。評価というまなざしや、成果を志向しようとする中に、「切実」に対する感受性があるのかということ。「せつない」という”大切に思う気持ち”があるのかどうかということ。

 

追記:そして一番の問題は、好きじゃないって思っていいって、自分で思えなかったこと。志向した方がやっぱりいいんじゃないかな、みたいに思っていたこと。そう、これは誰かや何かではなくて、自分自身の問題。

けど、本当は一番、そこって大事なんだって思った今日。

今世ではこんな感じ

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なんか、いっつも食べてばっかじゃん!という誹りは甘んじて受けるとして。

今日はNPO界隈の素敵女子たちとウイグル料理をとやらを食べてきました。

 

実は「食」に関しては、あんまり貪欲ではないというか(あんなに肉ばっかり食べてるくせに…)。〇〇を食べてみたい!とか、△△っていうお店に行ってみたい!っていう欲求がほとんどありません。好きなものだったら、毎日同じものを食べていても、まったく平気です。

旅もそうだなぁ。行ってみたい場所とか、まったく思い浮かばない。。。

あぁ、普通に出不精ってことですね。誰かから聞いたことや、誰かが好きなことに興味を持つってことはありますが、結局、「人」がいないことには、わたしの世界はまったく広がっていかないのです(今日は本当にありがたい機会でした!)。

そんな自分を「つまらない」と思ったこともあるし、ぐんぐん自分の世界を広げていくことができる人をうらやましいと思ったこともあるけれど、今は、「ま、今世ではこんな感じかー」と思っています。

 

「今世ではこんな感じかー」ってなかなか便利な言葉。自分を受け入れるとかって大事と知りつつ難しいこともあるけれど、「今世ではこういう感じ」っていうと、ちょっとだけ視座がずれて、自分と向き合うというよりは、自分を斜めから眺める感じになるような。結構、気に入ってます。

隙間をつなぐようなこと

今日のお昼は、夏~秋にかけて実施された「ちた仕事起こしゼミ」の受講生のみなさんが企画された女子ランチ会へ。

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※この前菜のあと、がっつりお肉食べました(^^)

 

それぞれの進捗や、これからの野望(!)を順不同に語りつつ、お互いにつっこみを入れたり、いいね!と背中を押したりするのは、ゼミのときの様子そのまま。次の予定があったので途中で失礼したけれど、その時点で集まってからすでに3時間が過ぎていた(笑)。

 

こういう場も、「やりましょう!」って言ってくれる人がいて、「そうしましょう!」って言ってくれる人がいて、はじめて成立するわけで。ありがたいことだと思います。

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確か内田樹さんの本で、世の中には必ず「誰の仕事でもないこと」が発生する。やらなくても責められないけど、誰かがやらないと片付かないこと。誰かがやれば前に進むこと。そんなことを「あ、それ、やっておくよ」っていう人がいることで社会が回っている、それを誰もやらないことが続くとエライことになる、というようなことを読んだことがある(ような気がする。出典が探せなくて、ちょっと自信がない)。

これ、すごく大事なことだなぁと思っていて、身の丈の起業って、なんだかそんな意味合いも含んでいるような気がしている。

 

「あ、それ、やっておくよ」とごく自然にいえる場面が増えるように。

そのことで、しんどくなってしまったり、「やっとく」と言ったにもかかわらずできなかったりしたら本末転倒なんだけど。

精進したいとあらためて思った今日。

 

思い出したこと

仕事始め。

といっても、起業支援ネットは組織として仕事納めとか仕事はじめとか決めていなくて、なんとなく、「自分はこの日から休もう、とか、自分はこの日から来よう、とか決めて、なんとなく共有することになっている。(だから年末とかに「起業支援ネットはいつが仕事納めですか?」って聞かれると「えっとわたしはですね」と言って答えていた)

 

そろそろ軽やかなことも書きたいなぁと思いつつ、起業支援ネット会報誌aileの編集長のブログを読んで

yoshimi-deluxe.hatenablog.com

 

夏ごろにフェイスブックでこんな投稿したなぁと思いだした。

www.facebook.com

 

分けるけど分けない。

分けないけど分ける。

 

その行ったり来たりができるようになりたいと願う。

 

(ところで、このFBの埋め込みって、FBやってない人でも見れるのかな。。。?)

人と組織の関係についてここんところ考えていること(その2)

先日投稿した↓の記事の続きを考えてみたいと思います。

huurinntei.hatenablog.com

 

とはいえ、結論もオチもあるわけではなく。一緒にモヤモヤしていただければ幸いです。

 

 前回は、組織の理念に自らを投じる覚悟や物理的な時間・エネルギーに、創業者や代表などのリーダーとそれを支えるメンバー(雇用されるスタッフの場合も、非常勤の理事だったり、ボランティアだったりする場合も)の間には、「ズレ」があって当たり前、というようなことを書きました。ここを、口当たりのいい言葉でごまかなさない方がいいと。まぁ、書いてみれば、目新しくもなんともないことでした(汗)。

 

わたしの知る限り、やっぱりリーダーって組織のなかで誰よりもその社会課題のことを考えているし、誰よりも「求められていること」と「できること」とのギャップに焦燥感を感じているし、誰よりも働いているケースが圧倒的に多いです(あ、起業支援ネットは違うかもです。今でも、一番早く事務所を出るのはわたしです。ごめんなさいごめんなさいごめんなさい)。

 

それはそれで、その人の「命の使い方」なのであれば、他者がとやかく言うことではないし、とやかく言ったところで大抵聞いてはくれません(^^;。

ただ、そういう働き方を見ている周囲が「それって違うんじゃない?」「おかしいんじゃない?」と言い辛くなってしまうことはよくあることで。「そこまでやっている人がそう言うならそうなのかな」っていう思考停止がはじまってしまうことや、

一方で、リーダーはリーダーで動けば動くほど情報が集まってきて、ネットワークも広がるのが常で、ほかのメンバーと”見えている景色”が違ってしまい、情報の流れが代表→ほかのメンバーの一方方向になり、「どうして一緒に考えてくれないんだろう。発言してくれないんだろう。」と孤独感に苛まれてしまうことや、

その孤独が高じてなのかなんなのか、リーダーが人の声に耳を貸すことが難しくなってしまうことについては、

もうちょっと何とかならないものかな、と思っています。

 

やっぱり繰り返しになりますが、もしそういう状況になっていたり、なりそうだったりしたときに、まずは現状をきちんと見つめることから始めるしかないのではないかなと思います。どんなに自分(たち)が望んでいた組織の姿とは違ってしまっていたとしても、現に「そうなっている」ということを認める力。

 

うーん、そう思うと、周りに「その人が言ったことなら、たとえ自分と考えや意見が全く違っていても、”もしかしたら自分の方が間違っているのかもしれない”と思える人」がいるというのは、ものすごく大事なことなのかもしれません。

そして、いろいろやばいかもしれないとうすうす感じたときや、本当に困る一歩手前のところで、そういう人にSOSを出すということも。

自分を励ましてくれる人や、応援してくれる人も大事ですが、「自らも痛みを感じつつ(=安全な場所から持論を述べるだけではなく)ダメ出しをしてくれる人」(それはスタッフでも理事でも外部の支援者とかでもいいと思いますが)をどれだけ大切に、たとえ厄介でも大切にできるかってことではないかなぁ。

 

非営利組織って、社会的に厳しい評価をされることもありますが、一方で小さな世界の中では「持ち上げられる」ことも多いので、なんというか、自分たちの客観的なポジションを俯瞰することがとても難しいように思います。その中で、できるだけ自分たちを相対化するためのエネルギーは、課題解決や理念に向かうエネルギーの10%くらいでもいいからとっておいたらいいのではないかなと思います。

 

…前回の終わりに書いたようなマネジメントの多様化の話にはなりませんでした。タイトル通り「書き留めたいことを書き留めたいように」書いておりますので、ご容赦を。

 

続くかもしれませんが、一回区切ります。

 

2018 明けましておめでとうございます

2018年を迎えました。

 

新年って「迎える」っていう、ちょっと受け身な感じがいいですね。

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仕掛けることも、迎えるしかないことも、味わっていきたいと思います。

 

自分自身の「強さ」を自覚した昨年。

弱さを拓いていくことの大切さも思いつつ。

自らに与えられた強さをどう使うかも大事なことだな、と思う今日この頃。

与えてもらった強さをどう使っていくのかを形にする一年にしていきます。

 

本年もどうぞよろしくお願いいたします。

人と組織の関係についてここんところ考えていること

大晦日ですが、おせちもつくらず、正月の準備もせず、だらだらしながらブログなど書いています(小掃除だけは昨日した。本当に小さく)。

おせちは、こっちでは義母に、あっち(実家)では妹にお任せ。

こういうときに、「罪悪感をもたない力」が、人の役割と力を引き出すのだと信じられるようになったのは、わたしの成長の証なのだと思います(笑)。そうだよ、やってくれる人がいるならば、堂々とだらだらすればよいのだ、多分。

 

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非営利組織のマネジメントとエンゲージメントについては、ここ数年いろんな例を見聞きしてきた。自分の組織のこともそうだし、いくつかの団体とコンソーシアム形式で仕事をするようになったし、ときどき他団体のスタッフさんからの相談を受けたりもする。

わたしは創業者ではなく、雇用という形態からNPOの世界に入ったし、しかも当時、前代表から起業支援ネットの説明を受けたときに言われたのが「給料は半分になるかもしれないけど、休みはTOYOTA並みだから!」というセリフ。実際、前代表も、家庭と両立したいっていうことでいつも15時くらいには帰っていたし。多分、起業支援ネットには、そういう風土・文化があるので、ほかのNPOとはずいぶん違うのだと思う。

わたし自身も、「それを”仕事”として位置づけられるのか」という意識は常にあって、実際のお金の発生の有無にかかわらず、仕事として位置づけられないものは引き受けない、というスタンスでやってきた。なんというのか、”持ち出しの仕事”ならやる、”ボランティア”ならやらないっていう感じ。時間が限られているという前提があるので、常に優先順位は考え続けてきました。(それがちょっと”豊かさ”を損なっているかな、という想いはあって、子育てもひと段落してきたので、ちょっと変えていこうかなとは思っています)

あと、経営的な意識をもったスタッフに恵まれ続けてきたのも大きいかもしれない。これは、わたしが起業支援ネットに入ってから今日に至るまで、個人差はあれど、本当にそうだと思う。それは本当にありがたいこと。それでも起業支援ネットのやり方が合わなかったり、居心地が悪かったり、不満があったスタッフも振り返ればいたはずで、そこはそういう中で組織も学ばせてもらってきたと思っています。

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という起業支援ネットとわたしのバックグラウンドを書いた上で、非営利組織の運営についてちょっと考えてみたいと思う。今まで自分が学んできたことも含めて。

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そもそも、「非営利組織の運営・経営」をしたくて非営利組織を立ち上げる人って、そんなにいないと思う。起業する人は、みんな自分なりの理念があって、地域や社会の課題解決やら、なにやら、「成し遂げたいこと」があって、でも、それは一人ではできないからっていうことで、チームができたり、組織ができたりするわけです。

なので、非営利組織の運営・経営というのは、思いっきり「手段である。方法である」というところから始まっています。そこに難しさのはじまりがあるのではないかと。

 

「自分自身は組織の理念のための手段なのか」、という問題に対して、創業者をはじめとするメンバーと、純粋に雇用されているメンバーとでは、ギャップがあって当たり前なのに、それを「理念」「仲間」「みんな」という言葉でそのギャップから目をそらしてしまったときに、ホントのズレがはじまってしまうように思います。

ギャップがもともとあることをしっかり受け止めていれば、そこに橋を架け続けることができるし、対話もできる。けど、ギャップを「ないもの」、「あってはならないもの」にしてしまうと、そこに対するケアも努力もしなくなるので、そのはざまに「落ちる」人が出てくるのではないかなぁ。

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多分、すごくヒドイ人が、すごくヒドイことをするから、すごくヒドイ状況が生まれるわけではなくて。それぞれがそれぞれの「一生懸命」や「精一杯」やっているにも関わらず、軋みや歪みが出てくるから、それぞれの傷が深くなる。

非営利組織の運営が、単なるコンプライアンスやガバナンスだけの話に帰結しないのは、多分、そういうことなのではないかなと思う。

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あー、あと、マネジメントの在り方について、もっといろんな選択肢があってもいいのにな、ということを書きたかったんですが、時間切れなのでアップ。

 

続く、かも。