「命の使い方」を思う日
もう3年目なんだから、今年はさすがに忘れてしまってもバチは当たらないだろう、なんて思っていたけれど。
なんとなく自分でも思い出してしまったし、長屋でも「今日は関戸さんの命日ですね」って声をかけてもらったり。
起業支援ネットの創業者であり、起業の学校の創始者であり、実母でもある関戸が旅立って3年が経ちました。
3年経って、やっとやっと。関戸が倒れてから旅立つまでの10日間のあいだに、それから旅立ったあとも、どれだけたくさんの方々に手や心を寄せていただき、支えていただいたのか、ということに改めて思いが至るようになりました。その節は、本当にありがとうございました。
関戸の残した「命の使い方」という言葉に、どれだけの人が支えられ、あるいは縛られ、それでもやっぱり支えられているのだろう。言葉は、寿ぎ(ことほぎ)でもあり、呪いでもある。
命の使い方、つまりは使命。
事業や組織を背負っていれば、誰だってすべてを放り出したくなることはあるだろう。いや、別に事業や組織を背負っていなくたって。
それでも、命の営みは続いていく。そこから逃れられないとするならば、どう立ち向かうのか、つかむのか、受け止めるのか。なんなら逸らしたっていい。手放すこともあり。何かが営まれ続けることが大事だということか。
さすがに、仕事のあれこれでの判断や決断で、関戸の意見を聞きたいと思うことはなくなった。でも、こんな出来事やあんな出来事をどう思う?と聞いてみたいことは増えた。
ただ聞いてみたいと思いつつ、こんな風に言うんだろうな、とか、まさかの視点で返してくるんだろうな、というのはなんとなくわかるし、それが外れていたとしても、怒る人はいないし、まぁいいか(笑)。誰かの中で生き続けるというのは、この程度の緩やかなことにしか過ぎないと思うし、それでいい、とも思う。
関戸が旅立ってから出会った方やご縁をいただく方も増えてきたので、こんなようなことを書くのも最後になるような気がしている。
ただ、10月15日は、わたしにとって「命の使い方」を思う日であり続けるだろう。
「まぁそんなに肩肘はりなさんな。どうせ来年は忘れてるでしょ?それでいいのよ」
そんな声が聞こえたような気がするのは気のせいか。やっぱり敵わないな。