書き留めたいことを書き留めたいように

起業支援ネット×よのなか×わたし

「命の使い方」を思う日

もう3年目なんだから、今年はさすがに忘れてしまってもバチは当たらないだろう、なんて思っていたけれど。

 

なんとなく自分でも思い出してしまったし、長屋でも「今日は関戸さんの命日ですね」って声をかけてもらったり。

起業支援ネットの創業者であり、起業の学校の創始者であり、実母でもある関戸が旅立って3年が経ちました。

3年経って、やっとやっと。関戸が倒れてから旅立つまでの10日間のあいだに、それから旅立ったあとも、どれだけたくさんの方々に手や心を寄せていただき、支えていただいたのか、ということに改めて思いが至るようになりました。その節は、本当にありがとうございました。

 

関戸の残した「命の使い方」という言葉に、どれだけの人が支えられ、あるいは縛られ、それでもやっぱり支えられているのだろう。言葉は、寿ぎ(ことほぎ)でもあり、呪いでもある。

命の使い方、つまりは使命。

 

事業や組織を背負っていれば、誰だってすべてを放り出したくなることはあるだろう。いや、別に事業や組織を背負っていなくたって。

それでも、命の営みは続いていく。そこから逃れられないとするならば、どう立ち向かうのか、つかむのか、受け止めるのか。なんなら逸らしたっていい。手放すこともあり。何かが営まれ続けることが大事だということか。

 

さすがに、仕事のあれこれでの判断や決断で、関戸の意見を聞きたいと思うことはなくなった。でも、こんな出来事やあんな出来事をどう思う?と聞いてみたいことは増えた。

ただ聞いてみたいと思いつつ、こんな風に言うんだろうな、とか、まさかの視点で返してくるんだろうな、というのはなんとなくわかるし、それが外れていたとしても、怒る人はいないし、まぁいいか(笑)。誰かの中で生き続けるというのは、この程度の緩やかなことにしか過ぎないと思うし、それでいい、とも思う。

 

関戸が旅立ってから出会った方やご縁をいただく方も増えてきたので、こんなようなことを書くのも最後になるような気がしている。

ただ、10月15日は、わたしにとって「命の使い方」を思う日であり続けるだろう。

 

「まぁそんなに肩肘はりなさんな。どうせ来年は忘れてるでしょ?それでいいのよ」

そんな声が聞こえたような気がするのは気のせいか。やっぱり敵わないな。

あいちコミュニティ財団の「今後に向けてのご報告」を読んで

2018年度の前半、世の中ではたくさんの不祥事がありましたけれど、例えば、日大アメフト部の悪質タックルをめぐる騒動をみながら、わたしはいつもあいちコミュニティ財団のことを考えていたように思います。

 元監督の自身の行いを全く内省できていないのだろうなと思わざるをえない謝罪も、逆ギレしていた司会者も、後手に回り続けた組織の対応も、不祥事を起こした、不祥事が起きてしまった組織というのは、ここまで相似形になるものかと暗澹たる気持ちになっていました。。。

 

昨日、あいちコミュニティ財団から「あいちコミュニティ財団の今後に向けてのご報告」が公開されました。

aichi-community.jp

 

 十分なものだとは全く思いません。この度の出来事に対して、誰がどの程度詳細な状況を把握して、どのくらいの危機感をもって今回の発表に至ったのかがわからないので、そのあたりのもやもやは残ります。

 

主な疑問点は二つ。
【1.部門別の会計が行われていなかったってマジか!】
→このことを公表してくださったこと自体には敬意を表します。ただ、お金を預かる団体としてはもちろんのこと、NPOや団体を支援する団体としてもありえないことだと思います。なぜそのようなことになってしまったのか、その結果どのような会計処理が行われていたのかということについては、今までの発表の中でも言及がありません。その点は、曖昧にせず、公開されていくことを望みます。

 

【2.財団の今後の立ち位置(理念と姿勢)まだ不明確】
→本当の意味での方針は、まだ明示されていないと感じています。例えば、社会的なしくみづくりを担うのか、寄付者の代弁者になるのか、団体を支援する機関なのか、というようなことです。今回、この3つの立場が矛盾したときに、バランスのとれた良き選択ができなかったことが不祥事の大きな要因になっていると感じています。ステークホルダーの意見を聞くことは大事ですが(聞かないよりはずっといい)、でも、その一番の魂の部分をステークホルダーに聞く、というのも無責任に思えます。担われる方の中でしっかりと検討し、示していただきたいと思います。

 

上記の言葉は、設立時の理事であった、またその後も様々な仕事を財団とご一緒させていただいてきた自分自身に大きく刺さります。

 

設立時、不祥事が起こった時よりはずっと事業はシンプルで、状況は把握しやすかったとはいえ、不祥事につながるような労務管理の問題、支援先の団体さんへのふるまいの問題、当時の職員の方とのコミュニケーションの問題など、不祥事につながる萌芽はあったし、大丈夫かな…感じていました。その都度、できる限り、財団や前代表に働きかけたり、理事会で意見はしてきたものの、もっともっと声を上げなければいけなかったのではないか、という自責の念は常にあります。そして、声を上げられなかった理由が、「組織としての成長を待ちたい」という想いももちろんあったものの、「あんまり言いすぎると逆に聞く耳を持ってもらえなくなるのではないか」とか、「現在急成長している組織にあんまりごちゃごちゃ言って面倒な人だと思われたくない」という気持ちがあったことも事実です。今回の出来事に関わってしまった人間として、この想いは、忘れることなく、背負わねばならないと思っています。

 

奇しくも、ちょうど昨日、日大アメフト部に関しては、関東学連が公式戦復帰を認めないことを発表しました。
わたしたち非営利組織の世界は、幸か不幸か関東学連のような、復帰を認めたり認めなかったりする機関は存在しません。だからこそ、これから関わる一人一人、過去に関わってきた一人一人が、判断するしかない、ということだと思うし、その判断の積み重ねが地域の未来を決めていくのだと思います。

 

今回の発表も、いろんな方がいろんな思いで受け止められたり、受け止められなかったりしたことと思います。
発表に至るまで、力を尽くされたり、尽くさなかったり(?)した方もいらっしゃることと思います。
不十分とはいえ、では、もし自分自身が財団の中でこれを発表する立場だったらどこまでのことができただろうか、とも思います。この度の発表に尽力されたみなさまには心からの敬意を表したいと思います。

 

今回の発表を、これまで財団に関わってきた、応援してきたすべての人が、【自分の中にある財団的なもの】に向き合い、こうしたことが二度と起こらないために、あるいは、起こったとしても誠実に対応するためには、どうしたらいいのかを改めて考えるきっかけになればと願っていますし、自分自身、そうしていきたいと思います。

就活と1995年の事件とわたし

25年位前、就職活動をしていた。全然うまくいかなかった。

 

今思えば、何もかもが足りていなかった。自分を客観的に見る力も、自分自身を掘り下げる力も、働くということがどういうことなのかを考える力も。なんとなく女性でも活躍できそうな仕事がいいな、というくらいの気持ちしかなく、うまくいかないのは当たり前だった。

同級生がどんどん内定をもらっていく中で、まったく結果が出なかった。最終選考まではなんとか進むものの、その先にいけない。「なんとなく人当たりと要領はよさそうだけど、きちんとモノを考えることができない子」。わたしが採用担当だったら、きっと当時の自分をそんな風に評したに違いない。

一応、それまではなんとなく「優等生」で、それなりにやってこれていた。そのやり方が通用しないのが辛かった。辛かったけど、辛さの原因が自分の甘さにあることも明らかだったので、辛いとも言えず、悶々と鬱々としていた。ぐちゃぐちゃでドロドロだった。

 

結局、最後の最後で拾ってくれた会社に入社することになったのだけれど、当時は全然納得いっていなかった。東京本社の、もっともっと大きな会社で働きたいと思っていたので(←もうそんな風に思っている時点でダメなんだけど…)、負けた気がした。(ま、結局その会社で大いに鍛えられ、今の自分の土台が築かれたと思っているので、結果オーライなんだけど、それがわかったのは、もっともっと先のハナシ)

 

「正解」がある世界で生きていきたい。「正解」がある世界でなら、きっと自分も高く評価されるはずなのに。認められるはずなのに。なにかの「正解」さえ示してくれたら、一生懸命頑張るのに。自分で考えることを急に求められても困る!そんな風に思っていた。

時々ぼんやりと「あぁ、学生運動が盛んな時代に生まれていたらよかったなぁ」なんて思ったりもした。戦う相手がはっきりしていて、みんなで一つの目標に向かっていけた時代がうらやましかった。(別に戦う相手もはっきりしておらず、”みんな”でも”一つ”でもなかったことがわかったのは、もっともっと先のハナシ)

 

社会人になって1年目の冬に阪神淡路大震災が起こり、春先にオウム真理教による地下鉄サリン事件が起こった。

地下鉄サリン事件の報道が連日行われる中で、幹部の多くが高学歴であることにも触れられていた。「優秀な人がなんでこんな犯罪に加担してしまったんだろう」という論調も多かった気がするのだけれど、わたしは、なぜ高学歴な人が加担してしまったのかがわかってしまうような気がする自分自身が怖かった。怖くて怖くてたまらなくて、その気持ちには蓋をすることにした。

当然のことながら、わたしはサリンを撒いていない。撒いていないんだけれど、あの就活で辛かったとき、自分が社会から必要とされていないように感じたとき、誰かに「正解」を与えてほしいと思ったとき、心のどこかに空洞があったことは確かで、もしも、もしも、なにかのきっかけさえあれば、ボタンの掛け違えがいくつか重なれば、どうだったのだろう。ふとしたきっかけで走り出した何かが、歯止めを失ってしまったとき、わたしはわたし一人の力でそれを止めることができただろうか。できなかったのではないか。

あの時に感じた「自分自身への恐怖感」は、今も、心の、頭の、細胞のどこかにある。

 

あっち側とこっち側は、そんなにはっきり分かれていない。

 

今日、オウム真理教の一連の事件で死刑囚となっていた7名の死刑が執行されたという。最近は、あのときの怖さの感覚を思い出すことは減っていたけれど、そのニュースを聞いて、思い出してしまった。「あっち側」と「こっち側」は地続きだ。あれは、狂った誰かが起こした事件だったのか。この社会の中に居場所と役割と承認がほしくてたまらなかった”わたし”が起こした事件だったのではなかったのか。

 

ありがたいことに、わたしは今、役割と居場所を与えられ、なんじゃかんじゃともがきながらも、ご機嫌に日々を生きることができている。だからこそ、地続きのあっち側とこっち側の間に、それでもなにかそこを分ける「一線」と呼べるものがあるとしたら、それは何なのかを考え続けなければならないと思っている。

 

事件で亡くなられた方のご冥福と、ご遺族の方、今も後遺症に苦しんでいらっしゃる方、それを支えていらっしゃる方のお心が少しでも癒されることをお祈りいたします。 

「身の丈」でいるためには胆力が要る

5月末で、起業支援ネットも20期目の事業年度を終えました。(法人設立は1999年なので、法人としては19年なんですが、途中で事業年度の変更をしたために、一応期としては20期を終えたことになります)

今期はささやかですが、なんとか賞与の支払いもできました。よかったです。。。

 

現在、総会の準備などをしていますが、今年度の方針には、1項目目に

「身の丈の起業・事業を身の丈で応援することを、すべての判断・行動の軸とする」

と書きました。

実は、ここ数年、ずーっと「うちは身の丈でいきますーーー!!!」ということを書き続けてきたので、もう正直書くことない、「今年度もいろいろちゃんとやります」とだけ書きたい、とすら思ったのですが(笑)、そういうわけにもいかないので、やっぱりこういう表記になりました。

 

「身の丈」を標榜していると「そうだよね!」と言ってくださる方がいる一方で、「本当にそれでいいの!?」という反応をいただくこともあります。

時々、法人運営等についてのヒアリングを受けたりしますが、「いいスタッフに恵まれて、それぞれの得意分野を活かしながら、日々ご機嫌に仕事をさせていただいております!」みたいなことをお話しすると、ちょっとがっかりされるような(笑)。

社会課題解決にまい進するNPOは、常に人材不足、資金不足に悩んでいなければならない…というような空気感を感じることもあります。ま、うちも何も問題がないわけではありませんが、起業支援ネットがやるべき仕事をやるべき形でさせていただいていて、本当に各方面には感謝しかありません。

 

身の丈って別にチャレンジしないっていうことではなくて、するべきチャレンジを自身(個人でも組織でも)が最大限活かされるような形で選んでもよいと心得る、ということだと思っています。

 

そうすると、世の中で起こっている様々な事柄に対して、またご依頼に対して、断ることもあるし、関わらない選択をすることもある。

その道を選ぶということは、常に自分自身に問いかけるということでもあって、

・ただ、サボっているんじゃないのか

・ただ、わがままなだけじゃないのか

・身の丈にこだわるあまり、誰かに迷惑をかけているんじゃないのか

という問いは、わたしの中でもいつもぐるぐるしています。

 

…だから、胆力がいるなぁって思うのです。

やらないという決断は、やるという決断よりも、難しいことが多いから。

自分自身の中にも、身の丈を超えたものに対する憧れもあったりするから。

 

でも、やっぱり、これまでいろんな人や組織や場面や事業に出会ってきて、身の丈は大事だと思うので、誰に何と言われても、思われても、自身(個人も組織も)の一番大切なものが損なわれないような選択をし続ける、ということは、これからも大切にしたいところです。

 

そういえば、2014年の活動方針にはこんなことを書いていました。

コミュニティビジネス・ソーシャルビジネスが少しずつ社会の中に定着するに伴い、その「成果」への「評価」についても、新たな局面を迎えていると感じており、その評価の在り方自体が新たな社会課題を生み出しかねない状況には危機感を感じている。

 思えば、起業支援ネット立ち上げ時にも、また起業の学校を開校した折にも、「支援対象を選ばない」(むしろ、支援対象から選んでもらうことを目指す)とした方針には賛否両論があった。しかしながら、常に起業支援ネットは「必要としてくれる人材や組織があるならば、そこで彼らとともに最善を尽くす」という道を選んできた。それは、社会課題解決を志すことにおいて、より早く効果的な手段を求めるという発想そのものが、社会課題を生み出してきた構造と酷似していることへの私たちなりの答えでもあった。

 「変革は弱いところ、小さいところ、遠いところから」という言葉の意味を今一度しっかりと噛みしめつつ、「自らが社会のリスクを引き受けて新たなコトを起こすと決意した人材や組織」への敬意を決して忘れることなく、また自らの支援の力量を上げるよう最大限の努力を怠らず、心して支援に向き合いたい。

 

今でもその気持ちは変わらない。

だからこそ、胆力をあげていきたいと思う。美味しいものも食べて。本当に思うことを語り合って、笑いあって、ご機嫌に生きるのだ。どんなに目の前に嵐や荒野が広がっていても、その先に光があることを、まずは自分自身が信じるのだ。

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※昨日食べた美味しいものの一部!

 

言葉を使うとき、そこに愛がありますように

ここ数日、周りでプチ批評ブームとも言えるようなムーブメント(?)が起きている。

 

【批評】[名](スル)物事の是非・善悪・正邪などを指摘して、自分の評価を述べること。(goo国語辞書)

 

言葉にするということ。自分の意見を述べるということ。その中で自身の考えが整理されたり、そこから対話が生まれ、発想が広がり、新たなものが生まれることもある。自由にものが言えない雰囲気よりは、ずっとずっといいと思う。一過性のブームではなくて、積み重ねられていくといいなと思っている。えぇ、もちろん自分もその一端が担えたら、と。

 

そんなことを思いつつ、少し前に友人たちと話したときのことを思い出した。

同世代の、割と抽象的な議論も好むメンバーで、あれこれ楽しく真面目に話した帰り道。一人で名鉄電車に乗ったころに、友人からの「今日はありがとうね~」というようなメッセージが届いた。

その中に「わたしたちは、体験したことや感じたことを言語化する力を持っていると思う。その力を大切に使っていきたいね」というような言葉があった(すごくいいメッセージだったのに、ちょうどスマホの修理の狭間で、バックアップ漏れして消えてしまったのが悔やまれる。。。)

 

言葉にできる、というのは、例えば手先が器用、とか、足が速い、とか目がいい、とかっていうのと同じレベルでの能力だと思った方がいいのかもしれない。

もちろん、トレーニングや場数で上達はある。ただ、やっぱり得手不得手はあるもので、やる気の問題だけでもないという自覚は、書ける・言える人の方が持っておいたほうがいいと思う。それでいけば、まだまだ不十分とはいえ、多分、わたしも「書ける」し「言える」人間だということ。それは、自分が努力して獲得したスキルでもあるけれど、「与えられた」ものでもある、ということ。

 

「与えられた」ものならば、やっぱり愛をもって使っていきたい。批判も、つっこみも、文句だって、怒りの言葉ですら、そこに愛があるかどうかは、やっぱりにじみ出てしまうもの。どんなスタイル、どんな流儀であったとしても、その言葉が、誰かへの、できれば<世界>への愛のある、誰かを照らし、温めるものになりますように。誰よりも、自分自身に言いたくて、このブログを書きました。

 

「そこに愛はあんのかい?」って江口洋介も言ってたな(古すぎる)。

 

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※日曜日に漬けた梅。手仕事とか、丁寧な暮らしとか、全然苦手だけどやってみた!

あなたの(組織の)理念は、危機のときにこそ試される

ここ数か月、メディアでも様々な「不祥事」が取り上げられていました。

そんなとき、まぁ、内容も気になるんですが、「あぁ、この組織のこの担当の人は今ほんっとうに大変だろうな」「この人(たち)を支えているメディアに出てこない多くの人たちは、どんな気持ちで仕事に向かっているのかな」などと考えてしまいます。(ちなみに「この会見は、謝罪の”型”としてはいろいろと押さえていてすごいな!」とかも思いました。)

 

不祥事って…、個人にとっても、組織にとっても「危機」なわけです。そんなときに、関わる人たちが何を思い、何を考え、どう動くのか、ということについては、やっぱり無関心ではいられない感覚があります。

 

で、思い出したのが、起業の学校公開講座Ⅱで「理念体感ワークショップ」を担当した起業支援ネットの戸上が、終了後にフェイスブック上でつぶやいていたこのコメント。(フェイスブック上では公開設定にはなっていなかったので、本人に了承を得たうえで、大事なところだけ引用します)

 

ここでいう「理念」とは、その企業が最も上位に掲げている目的・姿勢のことなんですが(なので、企業によっては別の名称を使っていることもあります)、それというのはつまり、その企業が本当に困った時に、最後の最後に判断の拠り所にするもののはずなんです。ということは、理念のレベルが低いと、変な経営判断を下すことになってもおかしくないわけです。

理念と業績は、どうも関係ありません(元も子もない表現ですみません)。
ま、理念が素晴らしいことと、利益を上げられることが一致しないのは、起業の学校の卒業生なら、みんな分かってますよね(前半の理念づくりでも苦労したでしょうが、後半のビジネスモデルづくりでも、また別の意味で苦労したでしょ)。

 理念のことを、その会社の業績がいい時に、ああだこうだ言ったって、経営者は聞く耳持たないもの(本当は、業績の良い時でも、理念があった方が暴走せずに済むとか、良い面はあるはずなんですが)。
ところが、ピンチに陥った時、拠り所にできる理念があることのなんと有難いことか。(理念がなくても、ピンチに的確に判断できる天才社長もたまにいるでしょうが、それは目指して成れるものではない。) 

ピンチの時こそ、その企業の体質が本当によく分かります。
そして、ピンチの時に、もし理念が判断の拠り所にできないとしたら、その理念と思っていたものは、実は本物の理念ではなかったのかもしれません。

 

これは、もう、本当に。いろんな方と、いろんな組織と出会わせていただく中で、肌感覚としてわかります。大きな経営的なピンチを(外発的なものも含めて)乗り越えたり、乗り越えつつある組織は、やっぱり理念がホンモノだったし、それを事業を通じて実現させていくという覚悟が半端なかった、と思います。

 

起業に限らず、生きていくってことは、判断を間違えること、選択を間違えることの連続でもあります。もちろん、よりよき判断と選択ができるようになるために学んでいくわけですが、それでも、やっぱり間違えるのが人間で。

 

じゃ、どうするかっていうことを、追い詰められた中(=打ち手が非常に限られている中)で、誇りと尊厳を失わずに考えるためには、やっぱり【ホンモノの】理念が大事なのだと思います。そして、その理念を信じぬく力。その理念をよりどころにして出てきた判断を遂行するしかない、と思える力。実際にやりぬく力。

 

起業の前にこのあたりのことをイメージするのは難しいかもしれませんが、だからこそ、社会で様々なことが起こったときに、「自分ならどうするだろう」ということを、より具体的に、よりリアルにトレースすることは、本当にいい訓練になると思います。

 

そして…。【ホンモノの】理念をつくりたい方。

起業の学校14期でお待ちしています! → 起業の学校14期

 

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身の丈起業の極意

3月24日、起業の学校14期の無料公開講座として、「起業家座談会~身の丈起業の極意」を開催しました。

 

前半はゲストの方々の事業や、起業(や経営者になるまで)の経緯を中心にお話を伺い、休憩。休憩時間の間に、ゲストへの質問がある方は、付箋紙に質問を一つだけ書いて提出していただき、後半はその質問に答えていただく、という形式で進めました。

 

ゲストは、

株式会社にんじんの伊勢戸由紀さん

(株式会社、職員→役員→代表取締役へ。創業30年を超える事業)

NPO法人多文化共生リソースセンター東海の土井佳彦さん

NPO法人、ボランティアとしての関りから代表へ。10年目を迎えようとする事業)

チームシリウスジャパン代表の政岡美里さん

個人事業主、アスリートから経営者へ、起業の学校12期生、1年目の事業)

のお三方。

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(なぜにわたしはこんなに楽しそうなのか…!)

 

前半から、飾りっけなし、混じりっけなし、結構生々しい部分も含めて、率直なトークを展開してくださいました!

 

起業の学校に関心を持ってくださる方は、もちろんすでに何かの事業を始めていらっしゃる方もいますが、はじめて起業講座と名の付くものに参加した、という方も結構多いようです。だからこそ、質問も、直球というのか、素朴で、でも本質的なものが多かったような気がします。

例えば…

◆いい仲間(事業パートナー、協力者、スタッフなどなど)を見つけるにはどうしたらいいですか?←これ系の質問は本当に多かった!

◆引き受ける仕事、断る仕事の線引きはありますか?

◆どうやってお客さんを増やしてきたのですか?

◆不安や恐れ(失敗したくないという気持ち)とどうつきあっていますか?

などなど。

 

ゲストのみなさんからは

・まず、自分がこういう想いでこういうことをやりたいと思っているという旗を立てないと出会えるものにも出会えない。そのうえで、自分からどんどん出向けばいい。人が人をつなげてくれるが、自分の中に軸がないとその出会いを活かせない

・最初からどんぴしゃな出会いを求めても難しい。出会ってみて、一緒に何かをやってみて、「いけそう」と思ったり「あれ?」と思ったりする、その感覚を養うこと。

(ゲストのみなさんも、”人”の問題に関しては、苦労も試行錯誤も重ねてこられたのです)

・仕事として引き受けるかどうかは、自分のミッションと相手の状況による。ただ、安易に安く仕事を請けてしまうことは、たとえ自分や自団体はよくても、業界にとってよくないので、そこは未来を見据えてしっかりと自分で基準を設ける。

・お客さんの増やし方は、どんなお客さんと出会いたいかによって違う。そのイメージがあるか

・不安があるのは「自我」とか「欲」があるから。理念やミッションは、それを乗り越えたところにある。それでも「自我」や「欲」はちょいちょい顔を出すので、よい判断や決断ができるように自分自身を「よい状態」にしておく努力はしている。

・とはいえ、不安や恐れがあるのは当たり前でもある。いきなり自分自身の主戦場で戦うのではなくて、そうではないところで小さく乗り越える練習をするのもいいのでは。(例えば、運動のトレーニング!(笑))

 

というようなことが語られました。ここに書いたのはほんの一部で、本当はもっともっと濃いやりとりだったんですけど(けど進行に集中しすぎてメモがない。。。)、いや、やっぱりこれ、時間足りんかったのは当たり前だわ…(改めて反省)。

 

つまりですね。

「こうすればこうなる」「こうすれば絶対にうまくいく」っていうような安易な極意っていうのはないっていうのが一つの結論。

でも、「何のために、誰のためにその事業をやっているのか、どんな社会を創りたいのか」という理念と、今の自分自身の身の丈を踏まえつつも身の丈を広げて、社会とつながっていく試行錯誤が重なったときに、その人だからできる判断やアクションが必ずある。多分、それが人から見たら「極意」と呼ばれるものになるので、やっぱり極意はあるっていうことでもある。

 

ちなみに、今回、「いきなり主戦場で戦わなくてもいい」っていうのは、わたしにとっては結構ツボでした。これは、いろんなところで応用できそう。わたしも、まずは小さくてもいいからはじめてみようっていろんなところで言っていますが、それはこういう意味もあったのか!と再発見しました。

残念ながら、失敗はするんですよね。。。上手くいかないことも、それはもう山のように。失敗しないようにするのではなくて、失敗しても大丈夫なように自分と周りをしておくことが、大事なのかもしれません。そして、起業家は、何が失敗なのか、何が成功なのかを自分で決めていいのです。

 

無料公開講座は残りあと2回。

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 4月7日の↑の打ち合わせを今日したんですけど、かなり面白いワークショップになりそうです。わたしも参加者として参加したい!!(当日は受付やってます)

あ、これはご参加の方がご自身の理念をつくるわけではありません(それは起業の学校でやります!)。え、それで理念体感ってどういうこと??と思った方は、今すぐお申し込みを!(テレビショッピング風)

 

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4月21日の↑は、起業支援ネットの副代表であり、知恵袋であり、軍師であり、本質主義者で実のところ一番過激な(どんな形容…?)、鈴木が語るというレアな機会です。こちらは基本的に講演会形式なので、ワークとかはちょっとね~という方もお気軽にご参加ください。